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日記や旅の記録、映画や本の感想など

365日とこれから

 これより続く文章は、私の「答え」ではないために誰かの「問い」でもない。よって、私の「問い」にも成り得ず、誰かの「答え」にも成り得ない。あえて形を与えるならば「独白」だ。もしこの奇特な独白を鑑みて、奇特な誰かが「対話」を試みてくれるなら、共にテーブルにつきたいと思う。珈琲、紅茶、酒でもなんでも宛がいながら。

 

 一年が経った。漫画『ゴールデンカムイ』の本誌連載終了から、である。
 痛く長い一年だった。連載終了後(中には連載中にも起こっていたものもある)から起こった様々な問題提起には、自らのアイデンティティと向き合う必要のあるものが多かった。知らずに、考えずに生きてきた自分を知った。そして、恥じた。恥は、痛みを伴う。
 この漫画を読んで、そして当事者に声を上げさせてしまって、ようやく自分は“和人”なのだということを知った。思い知った、と言ってもいい。一年経って、私はまだ「知った、だけ」だということを痛感している。知っていても、過ちは起こし続ける。このアイヌと和人という構図だけでなく、この世に広く普及してしまっている弱者と強者の構造的な問題において、知らず石を投げていたこと、知らず踏みにじっていたことを、思い知っている。
 自分の「大丈夫」は、誰かの「大丈夫じゃない」を踏み台にして成り立っているものではないか。誰かに我慢をさせているのではないか。誰かの口を塞いで高らかに笑っているのではないか。まるで腹の底が抜けたような絶望があった。そこに辿り着いてなお、「詰られたほうがマシだ」と他人を使おうとしている自分がいることに気づいて、めげた。
 人はたしかに一人では生きていけない。社会が成立した現代においては、余程の覚悟と準備が無ければ荒野にひとり生きていくことは不可能だ(試みている人物を知ってはいるが、そのひとですら雇用された社員であり、山脈を踏破してなお電車にも乗っている)。頼むこともあるし、頼まれることもある。進みたいときもあるし、急き立てられることもある。しかし、そこには合意があるべきだ。合意を経ずに奪取してきたから歪みが生まれた。合意をするためには、まず一人でしかと立つ必要がある。しっかりと立っていよう、立っていられるようになろう、知らず絡め取られている糸や縄や軛から抜けでてなお、立っていられるように。それだけがこの一年の、頼りだった。
 足りない、ということを知ることは、春の綿毛よりも軽く半紙よりも薄く透けた私に重しをつけて留めてくれる。そう。まだ足りない。知らないことばかりだ。知ると、知らないことが増えていく。
 恥によって痛むのは、過去という変えようのない莫大なる結果を前に狼狽えるからだろう。謝罪によって過去の過ちが無くなり丸ごと全て清算されることはない(謝罪が必要な場面は絶対にあることを前提とする)うえに、謝罪は謝罪する人の免罪符に成り得るひじょうに際どい行動でもある。加えて、過去の過ちを認めたくないばかりに嘘をつき逃げようとしてもその莫大なる結果はどこまでも付きまとい、結果を増大させていく。変わらない。変えることができるのは「これから」だけではあるが、「これから」のためにも「莫大なる結果」を腑分けして知る必要がある。
 ただ、そんな時にも思う。これは「私が楽になりたいから」行動しているのではないか。免罪符として掲げるために、本を読んでいやしないか。この疑念は消えない。消えるべきでもない。ずっとそこに居てほしい。ガラスの天井もガラスの柵も派閥もしがらみも要らないが、これだけはそこに在って、そして私のことを見ていてほしい。見ていてもらうために、私自身も目をそらすべきでない。
 私はいまもなお、『ゴールデンカムイ』が好きだ。出会えてよかった。殊更推しているカップリングの二人もいるけれど、基本は登場する全員がたまらなく愛しく大好きだ。そして私は和人であり、ここには明記しないがマイノリティでもある。どれも私で、あまりにも私だ。
 人間なのだ、と思う。付与されたものは大きく、それでいてこの社会で生きていくには必要だから貼り付けているものの、それでも結局、肉と皮と血の人間だ。踏まれれば痛いし、外へ出たいのに柵があれば不満を覚える。だけど、生きていたい。

 

 いい天気の日に書くことではないと思いながらも、雨の日には一層書く気にはならないだろう。なので、今日書けてよかったと思うことにして、乾麺を茹でて食べる。「これから」のために。